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8/31 山を降りたら、続々メールが入って来た。そして、電話である。「今、何処にいる?」 である。メールの返事が来ないし、電話を掛ければ、「電源が入っていないか、電波の届かない所におられるか・・」 のであるから、こちらは、低姿勢で、「どうも どうも・・」 繰り返すしかなかった。まさか山に行っているとは思いも寄らぬであろうから、「快復を祈願してきたもので・・・」 を後に付け加えたが・・・
今度の見舞に、娘も駆け付けるはずであったが、朝起きたら、突然ヒメが発熱し、その断念の連絡をしようと思っているのに電話が繋がらない。「何処にいるのかの他に、何かあったのか・・」 と心配してしまった。
携帯の苦手な姉からまで何度も掛かって来たが、皆野寄居バイバス(有料)、花園から関越道、鶴ヶ島JCTから首都圏中央連絡道で桶川・北本へ。街中に入ってからカーナビのない車のハンディが出てしまった。狭い道に多い車、そして、通行規制に参ったが、姪に会えてから、その誘導で難を逃れる事が出来た。
食が進まない義兄のやせ細った身体は痛々しかった。まだ、歩けるし、頭はしっかりしているから尚更気の毒であった。一方の姉は、逆に食べるのを我慢しなくてはならぬのであるからまた辛い。久し振りにあったが、「血は水よりも濃し。」 を実感した。チャンスの時よりもピンチの時の方が、行った甲斐があるというもの。特別な事を話すわけでもないが、ちょっと顔を合わすだけでも良いのであろう。
往路は眠たかった。ずっと寝ていないのであるから・・・・ 「山ノ神」 から、下道の提案があったが、「時間を掛けて、ゆっくり行こう。」 と、逆提案をして、高速に乗った。そして、魚津ICを、きっちり午前0時に降りた。
8/30 埼玉の姉夫妻を見舞うにあたって、娘と姪との待ち合わせを、桶川駅西口付近で午前11時頃とした。そうなると高岡をいつ出発すれば良いのかになったが、疲れと料金的に考えると、午前4時前に高速に乗る方が一番となったが、前夜に乗ると日曜日だから1,000円になるのも捨て難かった。
前夜に乗ると待ち合わせ時間までに、かなりの余った時間が出来る。ならば、ちょっと遠くになるが、「武甲山」 という山に登ろうかとなった。武甲山は秩父の山だから、逆算すると、夜明けと共に歩き始め、午前9時頃までに下山すれば、何とかなるのではないかとの結論に達したのである。
関越道の花園ICで降り、長瀞を経由して秩父へ。上野町交差点を左折して、横瀬という集落を過ぎた所から、石灰の採石場の中を行くのだが、これで合っているのかと思うほど。しばらくして、「道がなくなった。」 と思ったら、「武甲山」 と古い小さな標識があった。再び舗装された道と思ったら、ダートな道に変わり、鳥居と、反対側に関係者以外立ち入りと表した林道が続いていた。真っ暗で、何が何だか分からないので、そこで夜が明けるのを待つ事にした。(午前3時半過ぎ。)
ちょっとでも寝ようと思ってテントを出すが、月明かりがあるものの暗くてよく分からない。「山ノ神」 は、車の中から出て来ないので、仕方なく一人でやっていると、4時頃になってしまった。蚊取り線香に火を点けて寝転んだが、出発の時間が気になって寝付けなかった。
9時には、ここを発たなければ、間に合わないかもしれないので、暗い中、4時半頃準備をしようとなる。鳥居を潜り、その先に道が延びているように思えたので、車を乗り入れてみたが、すぐにストップ。戻って駐車し直す羽目になってしまった。登山口の事前調査では、標高600mくらいと認識していただけに、それよりも50~100m低い所からの出発となった。関係者以外乗り入れ禁止の道を行けば高度を稼げたかもしれないが、今度は、駐車に苦労しなければならなくなり、結果オーライだったと思う。
標高差700mと思っていたのに、それより増えたわけだから、「山ノ神」 には、ちいさなザックを用意し、後は私が全部担ぐ事にした。(と言っても、ゆっくり食事する間もないと思われたので、そんなに重くはない。) 武甲山の表参道と言われる登山道は、杉林が連なっている。いや全山、杉林だと言っても過言ではない。滝不動という水場と、標高1,000mにある大杉の広場以外、これという特徴がなく、唯、整備された杉林の中を歩いた感じであった。階段コースと一般コースがあり、山頂直下を周遊した感じだが、特別の感想はない。
山頂には武甲山御嶽神社があり、手を合わせた。日頃、信仰心の薄い自分であるが、姉を見舞う前に、それこそ神頼み的な心境となったから・・・ 7年前、胃の全摘手術をした義兄を見舞うために大宮の自治医大を訪れた時、やはり、途中にあった氷川神社前で手を合わせた事があった。今回は、山に登るための口実的なところもないではないが、快復を願う心に偽りはない。
8/29 今日も暑かった。車の運転をすると、すぐ眠たくなる私だが、今回の埼玉行きでは、途中、何回のタイムを要するか分からない。安全に充分気を付けて出掛けたい。
8/28 今度の休日(30日)は、埼玉の姉を見舞うため山行計画はない。雨の日も風の日も、帰省していた子供達を見送った後からでも、また友人・親戚の葬儀の前であっても、山に行っていたのであるから、「ライフスタイルが崩れる。」 という感覚に陥っている。
埼玉は都会ではないかもしれないが、地方と比べれば、駐車や道路状況が煩雑で、車の運転にあまり自信がない。「どんな狭くても山路の方が、どれだけ運転しやすいか・・」 になる。
1000円高速に肖るため、無理して、日曜の夜に乗ってしまうか、それとも身体を少し休めて深夜割引を使うか迷っている。その差は3000円余。しかし、娘や姪との待ち合わせ時刻が、午前11時頃であるから、その間、身体を休める事を含め、何処で何をするかになる。飲食や休息に費用を掛けるくらいなら、1000円高速に拘らず、高岡発を遅らした方が身体に楽なのではなかろうかとも思う。
カーナビない私の車は、クッションが良くないし、遠出の街中行きにはそぐわない。しかし、行かなければならないし、電車で行くほどの余裕がない。身体に鞭打って行くしかないのである。そして、復路の事は今から想像もしたくない。「山ノ神」 は、どんな提案をするか分からないから・・・
8/27 「山に行かない?」 「山はいいよ~。」 などと、人様に言う事が多くなった。「山歩きは健康に良いでしょう。」 などと言われた人に言い返しているのではない。それこそ言おうものなら、「私は・・・」 などと、引っ込んで行ってしまう。
体力の合わない人、相性の合わない人とは、面白くもないし、行きたくもない。しかし、体力がなくても、興味を示してくれる人や、お世話になっている人、頼ってくれる人には、何とか一緒出来ないものかと考えてしまう。殿様やお姫様待遇を望む人には、背を向けなければいけないが、頑張ろうとする人には手を貸しても良いと思う。私が出掛けているような山なら、まだ少しは、フォロー出来るからである。
私は、世に良い事をしていないから、何かをと思うが、なかなかそのようなものはない。「悪い事をしない。」 「いけない事をしない。」 が、精一杯で、「世に貢献」 などの大それた事は出来ない。「仕事も有償のボランティア」 の考えがあるが、やっぱり物足りない。贅沢をしている訳ではないが、100円ビールを1本止めて、それを寄付する事ぐらいは出来るが、何処でどうなって「人のため」 になって行くのか分かりにくい。やっぱり荷を担ぐ、手を引っ張ってあげるくらいしか出来ない。それと、自分の知っているところの道案内ぐらいである。それとも、道に落ちているゴミや空き缶拾いか・・・
8/26 このところ午後になって雷を伴った凄い雨が降る。と言っても局地的で、雷雨に見舞われた所は酷いにしても、降らなかった所は、「ちょっと、降ってくれればいいのに・・」 と思ってしまう。今日の高岡は、パラパラと来たが、本格的には降らなかった。しかし、県東部では、かなりの時間雨量を観測したらしいし、また、落雷で火災となった所もあったようだ。
前が見えないような雨に見舞われたら、それも長く続くとテントは辛い。好天ばかりを連想してしまうが、何事においてもリスクはある。「テントを担いで行ったが、雨のため小屋泊になってしまった。」 は、まだ良いとしなければならない。小屋がなければ、それこそ地獄を味わう事になる。
長い山歩き人生の中、強風でテントを飛ばされた事もあれば、テントを張るのを諦め撤退した事もある。テントを張る場所がなく、山小屋のお世話になった事もある。間近での落雷は、度肝を抜かれた気がした。何もかも捨て逃げた程であった。
沢歩き中、遭難者の物と思えるテントを見付けた事もあった。でも、テントも張らずシート(マット)の上に寝そべり、星空を眺めながら眠りに着いた事もあった。どの世にも、「天国と地獄」 は、同居しているように思う。近付かなければ良いとの考えもあるが、リスクをどのように減らすか(少なくするか)に掛かっているのかもしれない。
8/25 今度の休日は、何が何でも姉を見舞に行かなければならない。「わざわざ来なくてもいいよ。」 と言っても、裏腹な事もある。「術後の経過をみて・・」 などと、格好を付けていたが、本来なら、すぐにでも飛んで行かなければならないところを、今日まで延ばしてしまったのだから、幾つになっても甘えている事になる。
「長く話せる時間がないのなら、早朝を利用して、また、見舞ってから・・ 何処か近くの山を歩く。」 の思いもあったが、今回は、結婚してから一度も「伯母さんの所へ行っていなかった。」 という娘も合流しての見舞になるかもしれない。また、姉の子(姪)にも会えるかもしれない。だから、そのような不謹慎な事は一掃しなければなくなった。
行きも帰りもゆっくりと、山から離れた一日になる。でも、その運転などを考えると、山より疲れるかもしれない。行けない分は、帰ってから平日の早朝(仕事前)に牛岳にでも出掛ける事にしよう。
8/24 下界では、妖精のようであったかどうか分からないが、奥大日岳でお会いした悠女史が、「北ちゃん」 のお店(三華)にやって来てくれた。奥大日岳山頂で、アドレスなどを交換した時に、「seabura」 に彼女は反応し、「山から降りたら食べに行きたい。」 と言っていたから、訪ねてくれると思っていた。「北ちゃん」 は、遠慮してか感激してか分からないが、いや、もしかして、照れくさかったのかもしれないが、私に電話をしてくれて、悠女史の声まで聞かせてくれるサービスをしてくれた。
その悠女史は、ETC搭載していなく、高速は通常料金で来たというが、北ちゃんの所まで行けるカーナビを搭載。PCがなくとも携帯のWEB機能を使えば、それで充分だとか。また、フイルムカメラを使っていた。山小屋のアルバイト経験もあり、みかん農家で働いた事もあるいう。
ロマンを担いで大日小屋へも出掛けたのであろう。何か、普通の若い女性と違っていたが、人生いろいろであるから、そんな事はどうでもいい。親しみを感じ楽しい一時を、一緒出来た事に感謝したい。皆で撮った写真を、送ってくれると言っていたから、今から楽しみにしている。
8/23 好天続きと富山県民感謝デーが伴ってであろうか、立山駅は、月曜日であったのにかなり込んでいた。その煽りを食って、予定より40分遅れのスケジュールとなってしまったが、そこには馴染みの顔が幾つもあった。俵先輩がいた。剱岳へ向かうシュンちゃん御一行とも出会った。ミネ君とも・・・
そんな中で、「元さんでないけ・・・」 と声を掛けて下さったのは、高岡ハイキングクラブの牧野氏。同氏は、いろいろな情報や、激励のメールを送って下さる大事な方。しかし、お会いしたのは、ずっと以前、元日の二上山で、擦れ違い様に、ちょっと声を掛けて下さった事があっただけで、お顔はよく覚えていなかった。今回は、単独ながら剱沢や雷鳥沢で、3~4日をテント泊で過ごされるという私から見れば豪華な山行らしかった。美女平~室堂間のバス中を、ご一緒させてもらい凄い山の話を含めいろいろと教えてもらった。
浄土川を渡った所で、剱岳を目指すシュンちゃん御一行4名を見送り、我々3名(北ちゃん・山ノ神と私)は、室堂乗越を目指した。今日は、「急かさず ゆっくり山を楽しむ。」 が最初からの約束事で、歩いてきた道を振り返り、時にはよそ見をし、風車化したチングルマと戯れたり、立山三山の山並みの展望、そして、弥陀ヶ原を走る高原バスを眺めたり、思い思いの楽しみ方を満喫していたかの様。。
いつしか目の前に妖精のような女性が現れた。誰ともなく声を掛けて一緒する事になったが、その女性は、ギターを見に(聞きに)、大日小屋に泊まるのだと言う。何か胸に秘めて歩いているように感じられたが、「山ノ神」「北ちゃん」「元さん」 と、こちらが名乗ると、いっぺんに雰囲気が和らぎ、多治見(正確には可児市)からやって来た「悠女史」と分かり、奥大日岳まで、我がパーティーの一員となられた。
縦列で歩いているから、最後尾の私まで、何を喋っていたかは伝わって来なかったが、女同士で、かなりプライベートの事まで話されていたようだ。剱岳を右手に眺めながらの稜線歩きは、時折、すーっと流れる風を肌に感ずれば、汗を流せども、正に別天地である。しかし、その展望も奥大日岳直下の平地で休んでおられた先の俵先輩とお会いした頃は、もうガスに覆われてしまった。
それでも、山頂で約束通り、ゆっくりの昼食となった。悠女史も加わり賑やかな一時であったが、喋り過ぎなのであろうか、その割には、食べる量が少なかった。実際、山ノ神はフライパンを持参しながら、コンロに火を点けなかったくらいであるから・・・・
大日小屋に行く悠女史を先に見送り、我々はのんびりと室堂乗越・雷鳥沢に降った。予定していた午後4時のバスにはとても届かず、4時半もダメ。結局乗れたのは午後5時の室堂発のバスであった。もうちょっと、早く帰りたかった 「北ちゃん」 には、悪い事をしちゃったが、楽しい一日であった事には違いなかった。
8/22 明日は、黒菱平からリフトに乗らず、唐松岳(最近はこのパターンが多い。)行こうと思っていたが、北ちゃんから、「県民感謝デーの3割引を使って、立山に行きませんか・・」 とのお誘いを受けた。3割引と言えども、二人分の交通費を払わなくてはいけないから、ちょっと費用が嵩むが、しかし、何せ北ちゃんとは、7月の白木峰以来40日ぶりであるから、どうしても、そちらに心が動いてしまった。
でも、明日は、「山ノ神」の希望を取り入れて、室堂乗越・奥大日岳方面で、ゆっくり過ごす事になると思う。寝そべる時間があればいいと思うが、何よりも一日中お天気であって欲しい。
8/21 次行く山の事を考えるが、良い案が浮かばない。どうしても高い所に目が映り、出来れば、歩き始める所(登山口)も高い所を期待する。そして、そこへは、出来るだけお金を掛けないで行ければ最高なのであるが・・・・ (そんな所は、あそこしかないか・・・)
毎週山行く者として、ケチれるところはケチらなければ、我が家はパンクしてしまう。行けるところまで下道も、そのような発想からである。でも、なるべく費用を掛けないも、それに拘れば結構面白いものである。しかし、我が親友曰く、「金持ちがお金を使わないのがケチであって、お金のないお前は、貧乏なだけ・・・ 」 ケチと貧乏は違うというのである。それなら、「心は錦」 で行かなければ・・・
8/20 今日は、私のバースデー(birthday)。先日、60歳になったと思っていたのに、早いもので3年も経ってしまった。何もしないで過ぎてしまった感じである。「人様は、好きな事をしているじゃないか・・」 と言ってくれるのですが、自分としては何か物足りない気持ちなのである。
「あれもしたい これもしたい。」 などと、欲張りな考えを持たないように思っているが、時たま、ヒョッと脳裏を過ぎるのである。それは、衰えてきた身体と言えども、心の底に、「まだまだ・・」 が燻っているのかもしれない。
メールや電話、そして、バースデーカードを頂いたが、それもこれも全部私への励ましと受け取りたい。鞭打っても行かなければ・・・・
8/19 今月は盆休もあり、中5日(休みと休みの間)が3週も続く。週一の者にとっては、中6日が普通であるから、働く日が、1日多いか少ないかは、物凄く大きい。「山ノ神」 曰く、疲れが取れたと思ったら休日になった。(山行日になった。)が、疲れが取れない内に休日になった。(また、山に行かなければなくなった。)の違いが生じてくる。
最近、怠けているHPもそうである。綴らなくてはいけないと思っていながら、所用があったり、飲み過ぎたりしている内に、また、山に行く日がやって来てしまう。綴らなくてはいけないものが、どんどん溜まっていき、その内、記憶が定かでなくなっていくのである。
ちょっとでもいいから、すぐにやっておけばいいものを、能力がないくせに、完璧を求めるあまり、尚更悪い事になっていってしまっている。ダメだと思いながら 、これからも、その繰り返しを行って行くのであろう。
8/18 3日間の休みで、一つのピークしか踏まなかったのはあまり記憶がない。(正確には、小さなピーク・太郞山に行っているが・・) それだけ、のんびりした事になるのだろうが随分疲れた。「人様に合わせる。」 「お世話する。」 という事はそんな事なんだろう。
喜んでもらうには、それなりの気遣いが必要なのだから、疲れるのは当たり前である。そのような事を好んでしているのだから、何も嘆く事などない。問題は、果たして本当に喜んで頂いたのかになる。
でも、自分(達)には、それくらいの事しか出来ないので、後は、あちら様の判断になる。「来られたら、いつでもおいでよ!」 「いやなら、無理する事はないよ。」 が私の口癖である。
折立に着いて、私が先に車の方へ行っている間に、後から降りて来られたご夫婦が、我々3人の事を、「親子ですか?」 と問われたと言う。「羨ましい!」 とまで言われたそうだが、2人はどのような返事をしたのか、まだ聞いていない。子供達が小さい頃、スキー場や山に、ずっと一緒に行けたらと思った事があった。「一年に一度くらい・・」 などと、淡い夢を見た事もあった。そんな意味からしても、若い人達との交流は、自分の子供に置き換えればいいのかもしれない。
8/17 やっぱりシュラフカバーだけでは寒かった。ザックを背にしたが、足下が心持たなく、山ノ神のザックも敷いてしまった。寝始めは、「暑い!」 と言って、入口を網だけにしていた事も、後々祟ったのかもしれないが、一旦、目が覚めると、なかなか寝付けなかった。やはり、マットを敷いて、普通にシュラフの中に入らなければ快適とは言えないのである。でも、今回は緊急避難的な側面もあり、二組の寝具で3人が利用したのであるから、「実験=試し」 だと思えば、それなりの答えを得る事が出来たのであろう。
「目が覚めてしまった。」 事と、満天の星空であるから、山頂もしくは、何処かの稜線での「御来光」 を提案したのであるが、女性軍からは、「もう少し寝ていたい。」 との返答で、予定通り午前5時過ぎにキャンプサイトを離れた。
ハクサンフウロ・トウヤクリンドウ・オヤマリンドウなどの他には、終焉を迎えたチングルマとハクサンイチゲが目に着いた程度で、お花畑を期待する人には、ちょっと遅すぎた感があった。でも、展望は素晴らしく、北ノ俣岳・黒部五郎岳をはじめ、槍ヶ岳・水晶岳・鷲羽岳などが望め、高度を上げる度に、その後方に名山が浮かび上がって来て、シャッターを押すために立ち止まらなければならなかった。
何度も立ち止まったゆっくりペースでも、山頂まで3時間である。なかなか行く事の出来ない水晶岳から赤牛岳の読売新道を指をくわえながら眺め、北薬師岳の右後方には、雲海の上に剱岳が、そして、針木岳と似たピラミット形の立山が聳える。
1時間余の山頂滞在の間にも、ツアーを含めた多くの登山者がやって来られたが、すぐに発って行くのには、ついつい 「もったいない。」 と思わずにはおれなかった。我々には、余裕があったので、少しばかり北薬師岳方面への稜線を歩いた。「立山~薬師岳」 へのデモンストレーション的要素と思って頂ければよい。
山頂から、淡々と降りれば、我々の足でも薬師峠までは1時間半。テントを撤収し、太郞平小屋前で簡単な食事をして、折立に向かった。「どうしても、あの前の人達を抜きたい。」 と、「山ノ神」 の口から出る事もあり、登りの時ような、へなちょこ的なところを感じさせない歩きに、これはどうした事かと、目を丸くする場面もあったりして・・・・・・・
小口側線を辿って水須に出、まずはお風呂にと、「吉峰」 に行ってみれば、火曜日で休館。どうしたものかと、上市の「北アルプスの湯」に入れたのが午後6時半であった。ゆっくり1時間も浸かっていたら、今度は、お腹だペコペコになってしまった。
その頃、2年前に、もう1人一緒した橋ちゃんから携帯が入り、杉原女史に、「今度は朝日岳においでよ!」 とのメッセージをもらい、当時の皆と一通り言葉を交わされた事になり、何となくあっかりした。
とりあえず、富山に出て、食事をしたが、夜行バスまでには時間がたっぷりあり(夜行バスは午前0時半)、ここで、「さようなら・・」 と言うわけにもいかず、杉原女史を高岡までお連れしてしまった。歓談後、目がチョロチョロの私に代わって、「山ノ神」 が、再び富山に送って行った。
8/16 テントを撤収し折立を出発したのが午前5時15分。やっぱり、なかなか思った時間に発てないものである。また、昨夜の星空が何処へ行ってしまったのだろうと思うほどに、今にも降りそうなお天気であった。小さな虫にも悩まされながら、たくさんの汗を掻いたのであるから、相当蒸していた事になる。
しかし、時折吹く風は、クーラーのように気持ちが良かった。二人だけの歩きは、自ずと甘えが出て、どうしてもペースが上がらない。「今日来るかもしれない ねぎちゃんに追い越されるかもしれないよ。」 とハッパを掛けながら奮起を期待するも、「こんなお天気じゃ、来ないわよ。」 などと立ち止まってしまうのであるからどうしようもない。荷を担いだと言え、太郞平小屋まで5時間を要したのであるから、いやはや何とも・・・・
予定を変更して逆回りになった杉原女史が、午前5時に黒部五郎小舎を発つとなれば、太郞平小屋に着くのは正午頃になる。もし、もっと早く発っておれば、もうそろそろやって来る頃となる。「出来れば、北ノ俣岳付近まで出迎えたいものだ。」 が当初の目標であったが、薬師峠での設営を考えると最早ダメであった。
そんな思案をしている最中に、ガスの中からねぎちゃんが現れた。「来ないかもしれない。」 と思っていただけに感激である。ねぎちゃん自身も、太郞平~北ノ俣岳間が、まだ歩いた事がないエリアで、無理して来てくれたのかもしれないのに、こちらが、オタオタしてしまった事から、太郞平・薬師峠往復の時間(設営時間も)を費やしてしまった。
気を取り直して北ノ俣岳に向かおうと、トイレ前を通過の時、一個のザックがあった。「これが杉原さんだったら・・」 などと言って、通り過ぎようとした瞬間に杉原女史が現れた。お互いビックリである。
そうなると予定を変更して、太郞平小屋前で昼食をする事になった。2年ぶりの再会に手を取り合って喜び合った。
話が弾む程に時間がなくなるため、ガスの中であろうと、何処かのピークを踏もうとなり、すぐ上の太郞山に登る事になった。何の展望もなく、木道を歩いただけとなったが、それでも後から振り返れば、きっと想い出となると確信している。
薬師岳山荘泊を予定していた杉原女史に、「山ノ神」 は、薬師峠のテント泊を勧めてみた。それが意外にも、「OK」 となったのだからビックリであった。少しは脳裏に認めて来たものの、3人分の寝具は用意はしてこなかったから・・・・ シュラフ2、シュラフカバー2,マット2であるから、私は、シュラフカバーだけをもらい、座布団のマットとザックを敷物の代用とする事にした。
そんな中、タイムアップとなった「ねぎちゃん」 が、ガスの中に消えて行った。たくさんの食材を、また北ノ俣岳への稜線に期待して重いカメラを担いで来てくれたのに、本当に申し訳なかった。ねぎちゃんは、「訓練だから・・」 などと笑っていたが・・・ 杉原女史も感激していた事だろう。
あまり良くないお天気の中、薬師峠のキャンプサイトに戻り、テーブル・ベンチ作りをしてから食事に入った。「あまり食べられないね。」 と言いながらも、料理されれば口の中に運ばれて行く。
お互い多くの事を知らないながら、「山」 という一点だけで、また2年前の僅かな時間の相性だけが拠り所の不思議な世界は、話せば、す~っと入って行けるのであるから妙である。世の中、全てがこのようになれば、諍いがなくなるのにと思うのは、この時であるが、イヤイヤ、我が家でも、その通りにはいかないのであるから・・・・ 静かになった頃、そっとテントから出ると、またまた満天の星空であった。
8/15 出発が遅れた事もあるが、今日は、とりあえず折立泊。とりあえず雨が止んだ。
小口側線は、やはり長かった。そして、何故路線バスが神岡経由なのかも頷けた。(路線バスの所用時間は、富山駅前から2時間40分 料金は3400円) スーパーで食材を買い込み、それでも、ビールが、ちょっと足りないのではと、アルペン村のコンビニで追加購入。保冷剤代わりの冷凍したビールの中に入れれば、冷たさは大丈夫との「山ノ神」 の説明に無理矢理納得して、折立に急いだ。この時期、車が混んでいて、トンネル付近に駐車しなければならない事が多いのであるが、流石午後からの入山となると空きがあり、キャンプ場そばに止める事が出来た。
テントを張り、遅めの昼食と明日への鋭気持続を兼ねた「点滴注入」 をと思って、ザックを広げたところ、どれだけ探してもコンロはあれど、ガス(ボンベ)が見当たらなかったのである。新しいガスを、ザックの中に入れなくてはと思いつつも、違った場所にある故、「後から・・」と思ったのが、結局忘れたしまったようであった。
今更下界に戻る訳にもいかず、かといって、明日の薬師峠でのキャンプが、事実上不可能になってしまったのであるから一大事である。アルコール類や、パン・おにぎりなどだけは、何とかなるにしても、お湯を沸かす事や炒める事が出来ないのであるから、買い求めた食材が、パーになってしまうのである。
こうなれば、イヤでも他人様に助けを求める事しかないのである。「恥ずかしながら・・・」 と下山者に問わなければ、美味しい食べ物にも有り付けず、明日の山行自体が怪しくなるのであるから仕方がない。世の中というものは、心を込めてお願いすれば何とかなるものである。「大変だろう。」 と予備の品まで下さった方まであった。お礼を頑として取って頂けない方もあった。その温情を忘れず、自分も何処かで返さなければなるまい。
夜は満天の星が輝いた。でも、夜半を過ぎると、瞬く間にガスに覆われてしまい、明日からのお天気に不安が過ぎった。
今日も熊との遭遇があった。水須料金所から6キロくらいの所で、2頭の子熊と親熊がいた。我々の車を目撃してから親子熊は、ソロソロと林道から斜面を降り始めた。今回はズームをかけ過ぎ片手で撮ったため、3枚ともスカとなってしまった。今年は熊との遭遇は3回目である。それにしても、ヨチヨチ歩きの子熊は可愛かった。
8/14 今夕、三俣山荘に着いた杉原さんから電話が入った。太郞平小屋から黒部五郎岳を経由して三俣山荘に行く予定を、雲ノ平からの逆コースに変更して同山荘に行ったようである。荒れた天候の中であるだけに、「川の中を歩いていた。」 ようだとも言っておられた。
明日のお天気でどうなるか分からないが、水晶岳は外して鷲羽岳に登り、黒部五郎小舎に泊まるとか。明後日は(16日)は、黒部五郎岳を越えて薬師岳山荘までの予定と言うから、私は、北ノ俣岳辺りまで迎えに行こうかと思う。お天気が回復傾向なら薬師岳に登るのも良いだろうが、悪天なら、一気に折立に降る事を勧めようと思う。 まだたくさん降るような事が、ニュースでも気象情報でも報じられているだけに、私も明朝の気象情報を参考にしながら判断したいと思っている。
8/13 富山着午前4時半の夜行バスで来るという杉原女史を、折立行きバスに乗る合間に、「山ノ神」 と共に富山駅前で出迎えた。何度か会えそうな企画があったのであるが、遠方であり、休日も違うのであるから、なかなか会えないものである。
でも、常念岳から2年ぶりであったが、お会いしてしまうと、そのギャップはすぐになくなり、彼女の行程を確かめた。「私は、あまりお天気に恵まれないの・・・」 と言われながらも、予定通りにこなそうとする自信が伺えた。「今年はあまり歩いていない。」 と不安な一面も覗かせておられたが、ランナーであるだけに、その心配はないであろう。
長男の帰省(帰阪のタイミング)とお天気の悪さに、私達の行程を明らかに出来なかったが、どのような形でも、必ず太郞平方面に向かう事だけは約束した。寅年だという杉原さん、私の子供のような年齢であるが、2年前より、もっと可愛らしくなっていたような気がする。
8/12 岡山の杉原女史から、北アの旅の日程変更が届いた。それは、先月末に届いた日程に比べ、一日ずつ繰り延べされたものであった。台風のために変更されたのならいいのですが、私達の休日に合わせてくれたのであれば、申し訳なかったように思う。また、その日の内に岡山に帰るはずであったが、かなり遅い夜行バスに変更となっていた。
今日の午後、突然やって来た大阪の長男、そして、あまり良くない予報など、姉への見舞は先送りしたとても、私は日程(8/15~17)を、どのように組めばいいのか悩むところである。
同女史は、今夕 岡山を発ち、京都で乗り換えし、明朝富山に着く。富山から折立(バスは、山の村経由で3時間を要する。)を経由し太郞平泊。翌日は、北ノ俣岳・黒部五郎岳を経由して三俣山荘泊。3日目は、鷲羽岳・水晶岳などを経由して雲ノ平山荘泊。4日目は、薬師沢・太郞平を経由して薬師岳山荘泊。5日目は、薬師岳に登り、太郞平経由折立となっている。
いわゆる12日の夜行で岡山を発ち、13日~17日が山中で、17日の夜行で帰って行くスケジュールである。私の休日は15~17日で、後半の3日間に合わせてもらった感があるが、何処で、どのように合わせればいいのか難しいのである。ましてや、こちらがテン泊となると尚更である。
15日帰阪予定の息子は、「自分の事はいいから山に行けば・・」 と言うが、なかなか判断が難しい。17日富山でお会いする。17日日帰り。16・17日の1泊。15~17日の2泊。どちらにしても、薬師岳、薬師峠キャンプ泊を中心とする予定になりそうである。
8/11 昨夜、埼玉の姉から電話があった。明日、がんセンターに入院し16日に手術だと言う。「膵臓」 という部位は、父がそうだったように、なかなか難しい所だと承知している。「まだ、生きたい。」 との気持ちが充分に伝わって来たせいか、喋りには悲壮感があまりなかった。それよりも、4日前から入院し始めた夫(義兄)の心配をしていた。女は強しというところかもしれない。
幾つになっても姉と弟で、最近は、説教されるに度に嫌気をさし、電話に出たくない気持ちが強くなって来ていた。でも、「あんたのお姉さんでしょう。」 と、山ノ神に諭されて昨夜は私が出た。
10歳も違う姉だから、少年時代はいろいろ面倒をみてもらった。私が感じぬ有形無形で助けてくれたに違いない。私は三男で弟の死しか知らないが、二女の姉は、長姉や弟(長男・二男・四男)の死を目の当たりに見てきている。終戦は小3で、一年近く抑留生活を経験している。
だから、引き揚げ後貧しい生活の中、大学に行かせてもらった事にとても感謝していた。今は、私と違い豊かな楽しい生活の最中であったろうに、病床生活になるのであるから、切なくてしょうがないであろう。
その姉は、教員の道を選んだ。高校時代は投てき(砲丸・円盤なげ)では県下無敵で、社会人になっても、レベルの低い北陸ではNo.1の道を歩んでいた。しかし、昭和33年の富山国体では7位で悔しがっていた。
一方、こんな想い出がある。今を思えば好きな人だったのかもしれないが、遠方から尋ねて来た方とのデートだったと思うが、何故か私が同行していた。また、好きでなかったのか分からないが、姉宛に届いた賀状の返事を私の名で書かされた事もあった。今のダンナの見合いだったのか、見合いした後の会食だったのか、忘れてしまったのであるが、ここにも私がいたような気がする。
言いたい事は結構言った人であるが、反面シャイな所もあったように記憶している。私が高校時代に姉が愛用していたウインドブレーカーをもらったが、つい数年前まで私も愛用し続けていた。随分と、ほころびているが、まだ捨てきれないでいる。
父も母もいなくなった現在、血の繋がった一番近い年上の人は姉である。少々お説教されようが、やっぱり、ずっといて欲しい。
8/10 私は、10年以上HPを続けながら、他のHPやブログにあまり書き込んだ事はない。それは、酷い書き込みがあったり、また、一部の人達が、まるで占領しているかのようなHPやブログを目の当たりにして、「入り込むのはちょっと!!」 と思った事があったからかもしれない。そんな事が、ずっと引き摺りなかなか書き込み(入いる事)が出来なく現在に至っていた。
そんな事もあり、私も掲示板を用いず、メールアドレスにリンクする事を止めてしまった。(アドレスは、profileを参照) どうしても、連絡したければ、他の方に曝されなくてすむメールの方が良いと思っていたからでもある。
堅苦しくなく、「ちょっとだけコメントを・・」 という方もたくさんおられるから、あのように、ブログが大繁盛なのかもしれません。白山・室堂でお会いしたナオミさんのブログを拝見したら、引き摺り込まれてしまい 下手な書き込みをせざるを得なくなってしまった。
思いはそれぞれ、「ぶれなければ・・・」 信念を通せばよい。でも、心は弱いもの。聞いて欲しかったり、同調を求めたりして、目に見えないつっかい棒が欲しいもの。それが人というものでしょう。「聞いてくれる人はもてる。」 でも、聞いてばかりはいられない。
8/9 母様の介護のため、東京の家族と離れて実家に戻っておられる藤井政人氏の激励を兼ねて白山に誘った。同氏は高校の先輩にあたる方で、弟さんも私と同級生だと聞いて親しみを感じていた。どれだけ歩かれるのか分からない故、我々にしては、ちょっと早めに高岡を出発、また、高速を利用と、ケチケチ人間にしてみれば、かなりの気を遣った感じである。
しかし、冬はスキーを楽しまれ、こちらでも、同氏の同級生の方々と、高い山ではないが、時間制約の中を歩いておいでるらしく、「山ノ神」 の脚力を上回る程であった。流石に、下山時は膝にきたらしく、足を引き摺られていたが、約30年ぶりの白山に大満足のようであった。
クロユリは終焉を迎えようとしていたが、他の高山植物の咲き誇る様に、大喜びでシャッターを切っておられた。何人もの知り合いにあっては話し込み、知らない若者達にまで声をかける私に、呆れておられたかどうかは分からないが、最後には、その若者達との会話を結構楽しんでおられたように思えたが、私の独り善がりかもしれない。
パラパラと来た雨も、何の障害にもならず、もうちょっと降れば、「冷たいシャワー代わりになったのに・・・」 と思う程であった。久し振りに遭った尾間氏(四間丁氏も)ナオミ女史率いる朝日町の方々、小松の北田君、東京の美女二人など、話が弾み実に楽しかった。 (喋りすぎの感があったらお許しを・・・ 東京の彼女達の名を聞くのを忘れちゃった。連絡を下されれば、「あの時、この時」 出会欄を書き直します。)
8/8 埼玉の姉が12日に入院し16日に手術との連絡が入った。そして、それより先に、義兄が昨日から入院したとの事。どちらも大変重い病であるだけに、山どころではなくなってきた。かと言って私が何出来る訳でもない。明日は、別にして、近々見舞に出掛けなくてはなるまい。
8/7 久し振りに5通のハガキ(便り)を書いた。5通5人ともPCメールに対応してくれない人達であるが、書き始めると面白く、何通も書きたくなる。(一人だけ携帯メールが可能) 出しっぱなしの人もあれば、必ず返事をくれる人もある。その中で、会おうと思えばいつでも会えるし、電話を掛けようと思えばいつでも掛けられる長年の友人「はるちゃん」 にも出した。たわいもない思い付きを認めるのであるが、彼はイヤな事も言わず、そっと喜んでくれる。
もう一人、10年前針ノ木岳・蓮華岳の登った時、知り合った東京の武鹿野氏である。雪渓をずっと一緒に歩いた青年とは、2~3年で途切れたが、あまり話をしなかった同氏とは、ずっと続いているのである。顔も忘れてしまっているし、何をしておられる方かも知らないが、賀状の他に、年1~2回程、お互い自分の撮った写真付のハガキをやり取りしている。違った意味の山友達でもある。
8/6 八王子の山崎さんから、「南小谷まで送ってもらったので、無事に最終の ”あずさ” に乗る事が出来ました。」 とのお便りが届いた。山崎さんと吉田さんは、朝日小屋から朝日岳に行く際に、標識の見落としか、それとも、視界悪くそうさせたのか分からないのですが、水平道を辿ってしまい2~3時間のロスをしてしまったとの事であった。
そして、蓮華温泉からのバス時刻を確認しておらず不安がっておられたので、先行く彼女たちに、「私達はゆっくり歩きますが、午後3時半から4時くらいに蓮華温泉に着く予定にしています。もし、バス時刻に間に合わない時は、私の狭い車でも良かったら平岩まで送りますよ。」 と言ってあげ、「途中、もっと条件の良い方と巡り会われた時は、そのようにされていいし、また温泉に入っているから、もうちょっと待ってて欲しいなど・・・」 となれば、車に何かメッセージを書き置きするよう、車のナンバーを告げたのであった。
本当は、もっと条件の良い方と巡り会われたのかもしれないが、私達の車を選択されたからには、丁寧に送らなければならない。「車に弱い。」 と言われてゆっくり走った。平岩駅では、すぐにの電車がなかった。ここまで来たら、やはり南小谷まで送らなければなるまい。その道中、山の話をしたが、ダンナはクライマーとか、こっちは、「唯の山好き」 とだけ言うしかなかった。
南小谷では、ちょうど良い具合の電車があり、とても感謝された。そして、別れ際に、深く辞退したが、心付けを頂く羽目になってしまった。車中、そっと中を広げて、「山ノ神」 がビックリ。「これでは、バス代より高額じゃない・・・悪い事をしたみたい。何かお返しをしなくては・・・」 となったが、今日のお便りからして、頂いてもいいのかもしれないと思った。「今度、富山に来てください。」
8/5 「7/30~8/1 常念岳・蝶ヶ岳に行って来ました。久し振りのお天気に恵まれ、例によって楽々スケジュールでのんびり楽しんで来ました。
一ノ沢~常念小屋泊~常念岳~蝶ヶ岳ヒュッテ泊~三股~温泉~穂高で、お蕎麦で締め。
常念小屋から頂上、常念岳頂上から蝶槍まで、かなりのオーバータイムでいくら遅い私達でも、違いすぎるので、地図が間違っているのでは?」 と思ってしまったとか・・・・ 神奈川の由利香女史からのメールの一部である。
そして、「月末は穂高の予定です。8/28~31で、涸沢~北穂~奥穂~涸沢を考えているのですが、私達の実力では如何なものかと検討中です。月曜・火曜が入るので、ニアミスぐらいは出来ないかと思いメールしました。検討下さい。」 と結んであった。
「常念岳・蝶ヶ岳の山旅は良かったでしょう。
長いコースで「ダヤかった。」と思いますが、
それ以上に素晴らしい展望に癒された事と思います。
お二人なら、今流行の「山ガール」や「「山女子」の雰囲気がありますから、
たくさんの方々から声が掛かったのではないでしょうか・・・・
月末の穂高のご予定ですが、もう一週間後(9/6~9/7)なら、何処かでお会い出来るのでしょうが、
私(達)の休日は、30日(月)だけです。
日帰りしか出来ませんから、ご連絡頂いた計画では、
何処にも入り込む事は出来ないようですね。」 の返事を出したが、久し振りにお会いしたいものだが、致し方ない。「元気でさえおれば、いつでもお会い出来ますよ!」 を付け加えておいた。
8/4 今度の山行時は、ちょっと肩が痛かった。一年中、アザのようにザックの跡があるところに、アセモかもしれないが小さな湿疹が出来、鎖骨横には小さな水疱が出来ていた。痛いはずである。このところの右腰上の張りも取れないから、背負う限界なのかもしれない。一人分だけを担ぐのなら、もう少し軽くなるのであろうが、我が家の事情からそのような事は出来ない。あれを減らすしかないか・・・・
8/3 昨夜の段階で、雪倉岳経由の鉱山道ルート計画が没になっていたから、朝方はゆっくりしようとなっていた。食事を終え、ラジオ体操をして、尚かつ、朝日小屋の大広間に上がらせてもらって、従業員の方々やアルバイトさんと共に、コーヒーまで頂いてからの出発となった。そして、見送り付きである。(昨夜来のビック待遇に感謝でした。)
朝方の好天は、強い日差しを伴ったが、剱岳まで顔を出してくれて、とてもハッピーであった。この天気なら、鉱山道でも良かったかに思えたが、やはり「葉っぱ隊長」 の判断宜しく午後から雨になった。
昨日眺めたお花も角度を変えれば、また違った雰囲気を醸しだし、ついついシャッターを切ってしまっていた。追いつ追われつの道連れの方々とも、僅かな触れ合いを大事にした。思いもよらぬ心遣い(持てなし)に何度もハッピーな気分になった事があったが、逆に何かをしてあげれて喜ばれるのも、これまた気分の良いものである。下界では失われつつある人情が、何故か山歩きには残っているように感じるのであるから、尚更止められないのかもしれない。
ちょっと余計な事を喋りすぎて、後悔する事もあるけれど、決して、避難したり貶したりしていないから、煩がられても悪い気持ちにはしていないつもりなのだが・・・・
お節介であったが、東京方面に帰られるご婦人二方を、蓮華温泉から平岩ではなく、南小谷までお送りしたが、気があったのであるから、当然気分は悪くはない。
8/2 なかなか行き先の決まらなかったキャンプ山行であったが、2日前にようやく蓮華温泉からの朝日岳になった。とにかく、ゆっくり、そして、充分にお花を楽しみながらの副題まで付き、しかも、4人で3張のテントあった。白高地沢を渡っての五輪尾根ルートは、橋ちゃんが2回目で私が3回目、ねぎちゃんと 「山ノ神」 は、初めてであったので新鮮さがあった。
始めが降りで、降りた分だけ登り返さなくてはならない長~いルートであるから、ゆっくり行こうと言っても、遅れる者にとっては、休んでいる間がない。強要しなければ充分な休息を取れない「山ノ神」 は、何度もそのコールを叫んだ。
「お花がきれい。」 と 「ダヤイ」 と、どちらの印象が強いか分からないが、テントを担いでは、もう来たくないと思っているであろう。でも、最後は頑張った。それは、「ゆかりさんの顔が見たかったから・・」 いやいや、「ビールを飲むために・・・」
三週間連続で朝日小屋にやって来る事になった橋ちゃん(葉っぱ隊長)は、当初プライベートだから、あまり前面に顔を出さないと言っていたのであるが、小屋の混雑、そして、忙しそうにしておられる 「ゆかりさん」 を見て、一目散に中へ入っていった。優しい橋ちゃんを改めて見たような気がする。
8/1 明日からのキャンプ山行は、恒例と言っても今年が3回目。昨年は鹿島槍ヶ岳、一昨年は蝶ヶ岳から常念岳と、全て好天に恵まれている。(三股から2時間ぐらい雨具を着込んだが・・・) 今回もお天気続きの余勢を買って出掛けるつもりであるが、ちょっぴり山沿いに、また、夜遅くに傘マークが付いてきた。
ここまで来たら、「何が何でも・・」 であるし、そんな雨なんか、吹っ飛ばすつもりで出掛けなければならない。「雨もまた良し・・」 のつもりなら、何でも楽しい。しかし、それよりも、良いように予報が変わる事を願っている。