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6/30 昨日の雨飾山の登頂は19回目であった。初登頂は、昭和61年10月であるから30年前となる。雨飾山への憧憬は、それより先で、昭和51年11月23日、当時は、まだ車がなく、はっきり覚えていないが、”きたぐに” か ”立山” の急行で糸魚川に行き、大糸線に乗り換えて、根知で降りた。それから山口までバスに乗り、その後は歩いた。その日は、お天気が悪く、雨飾山荘に辿り着く前から雪になった。
高3の時、奈良の従姉妹を立山にガイドした時、お礼として、深田久弥の日本百名山をプレゼントされていて、雨飾山の名は見た事があるくらいで、全く知識がなかった。当日は、1/50,000の地図と、10年以上経ったガイドブックを持参しての山行となったのである。
雨飾山荘も勤労感謝の日が小屋閉めで、最後のお客だったかもしれない。事前に電話で申し込みをしていた事もあり、手続きをして、すぐに山に入った。でも、この時期は、日没も早く、お天気が悪くて早く暗くなったように覚えている。
何処まで行ったかよく覚えていないが、恐らく薬師尾根に入って、そう奥まで行っていないような気がする。アイゼンを装着していたが、同行の友人が滑落してしまった。大した事もなかったが、その時点で撤退を決め込んだように覚えている。宿に戻った頃は、暗くなっていたように思う。
翌日は、晴天であったが、山への未練は全くなく、宿から仲間二人と、ワイワイ話しながら歩いて降りた。途中、広い道に出てから、車に乗せてもらった。糸魚川の海岸でのんびりした事もはっきり覚えている。
その一回は、雨飾山にカウントしていない。多分、その先に登頂した事があったのなら、カウントされていたのだろうが、10年後が初登頂となっている。そのような事、残雪期のブナの間を歩いて迷った事、新雪に阻まれた事、車のスリップを阻止するためチェーンを巻いた事、また、「山ノ神」の墜落事故、そして、錦秋の素晴らしき紅葉時期など、雨飾山には、想い出がいっぱいである。
6/29 今年の雨飾山は、梶山側も小谷側も道路状況が良くなく、遅い幕開けになった。梶山側は6/22から、小谷側は、今も午後7時から午前7時まで通行禁止となっている。(実際は、もう左程の支障がないから、守られていないようである。)
一週間前の第3日曜日は、お天気がイマイチだったし、翌日の月曜日は時間制限で、とても行ける状況でなかったから、シラネアオイは諦めていた。突然、娘から、朝の制限解除を言われ、遅いかも知れないが、雨飾山に行こうとなった。
毎週、出掛けている事もあり、金銭的には厳しく、高速を使わないとなれば、尚更早く自宅を出なければならない。今回は、何となく、小谷側からとなり、そのちょっとの距離の関係から、帰りは、糸魚川・魚津間を高速利用となってしまった。(速く歩けばと言ったら、また怒られてしまう。)
ピーカンの予報であったが、それとは裏腹に、始めから、ゆっくりであるが、ワイパー使用であった。148号線に入ってから、雨が上がり、歩き始める頃から、日差しが戻って来た。夕方の保育所への迎えがある事と、なるべく高速を使わないようにと、「山ノ神」は、いつもより頑張っているのが分かった。
それでも、ススダケやコシアブラに目が奪われ、斜面を目の当たりにすると、ウドはないかとなってしまった。大量の残雪で埋まっていた荒菅沢でも、休もうとしなかったし、これなら、コースタイム以内で行けると思ったが、最後の岩場の登りで息が尽きたようであった。
お目当てのシラネアオイの群落は、既に盛りを過ぎており、元気のない姿を晒していた。「もう一週間早ければ・・」 と言ってもも仕方がない事で、元気な物を探す事になった。笹平にも、たくさん咲くのであるが、ハクサンイチゲと共に、その光景をみる事が出来なかった。
「山ノ神」は、山頂には行かなかった。「行かない。」 と言うのだから無理をさせなかった。笹平の山頂直下で、自分なりに楽しむ事になったが、それも良いと思った。5年前の10月の墜落事故以来、トラウマとなっているのだから仕方がない。それでも、昨年の10/13の台風最中に登ったのだから、登れないハズがないのであるが・・・ それでも、あの風の強い中、また落ちるのではないかと思ったと言うのである。
下山時は、私だけであるが、元気なシラネアオイを探しに、急斜面を降りたりした事も有り、少々時間を費やしてしまった。ちょっと、伸びたウドの収穫も有り、登山口スタートが、午後4時25分となっては、高速を使わない訳にはいかなかった。
6/28 夕方になって、「明朝の保育所の送りはしなくていい。」 と娘に言われた。保育所の迎えはあるから、全く自由ではないが、それならば、過日からシラネアオイを見に雨飾山へと思っていただけに、明朝早く出発する事にした。
シラネアオイは、もしかしたら、ちょっと遅いかもしれないが、雨飾山に咲くシラネアオイの咲く量は、何処の山にも負けないものがある。それに遭遇すればラッキー。ブヨにも見舞われないような、風や低温であれば尚更よい。
6/27 今のところ、元日の休業日から休日の山行は皆勤である。内容は、大した事はないにしても、今の環境からして、よく頑張っていると思っている。それが良いとか悪いとかは別にして、ライフスタイルを変えていない。
それを、少し変えようかと思っているのであるが、怖くてなかなか踏み切れない。山行く回数を減らして、何か他の事という意味合いであるが、踏ん切るには、まだ時間が掛かるような気がする。それは、未だ目的を失っていないという事と、トレーニングジム(鍛錬の場)として、意義があるという事に他ならない。
6/26 「好山病友の会」 の懇親会の企画を任されながら、自分の不甲斐なさから、今回は見送る事となった。元々月曜日の会であるし、休日の相違や職業・年齢などがバラバラであるから、集う事自体難しいのであるが、これまでは、仲間の協力を得て、10年も続けてきた経緯があった。
始めから、時間的融通が利かないと分かっていた私が、幹事役を受けてしまったのが間違いであった。大方の仲間に連絡をしていなかったから事なきを得たが、この先が思いやられるような気がする。
「別に飲まなくてもいいのでは・・」 なのであるが、仲間と行ける山行自体少なくなって来ている現状では、時折(年に1~2度くらい) 顔合わせをしなければ、だんだんと遠ざかってゆく危険性があるから、決して意味ないものではない。
会えば、すぐに打ち解け合えるし、楽しくてならない。夜であるし、3~4時間くらいしかないのであるが、やっぱり、久し振りに顔を見たい。そして次は、もっと若い人達に任せなくてならないようである。
6/25 私達は、戦後の第一次ベビーブームに生まれ、通称 「団塊の世代」 と言われている。常に競争に晒され今日に至っている。「勝ち組」 「負け組」 などと分類する人達もいるが、高位に就いた人や財産を築いた人だけが、「勝ち組」 とは思えない。
思うような人生とは言えないまでも、その生き様や巷での評価など、学歴や地位・財産だけでは表せないところもある。「もうちょっとだったら・・」、「もう少しあれば・・」 など、しょうがないところであるが、ピリッと、襟を正せるなら、それも宜しである。
それよりもである。これからの人生が大事なような気がする。まだ、ロスタイムと表現するのは速過ぎるが、残りの時間をどう過ごすかにある。でも、それは本当に難しい。流されるままに、逆らう事なく、無難な人生も良し、また、存在感を見せながら、やせ我慢もいいのであろう。
「あれも、これもしたい。」 「あそこへも、あちらにも行きたい。」 そのような事が出来ればいいに決まっている。でも、元気でなければどうしようもない。また、周りも元気でなければならない。そして、いつも笑っていたい。
6/24 先日の小白木峰でのススダケ採りの際、不注意から小枝らしき物が目に入ってしまった。ちょっとコロコロしたが、出血はなかったので、様子を見ながら、その作業を続けていた。家に帰り、近所へお裾分けを届けた際、目が腫れていると指摘された。
「目に、何かが入ったからかな・・・」 などと、言い訳をしながら、家に戻って鏡を見たら、左瞼が腫れ上がっていた。違和感があったが、これほどになっているとは思っていなかったからビックリ。とりあえず、目薬をして、様子を見る事にした。
10年ほど前、黒部奥の不帰岳(2,053m)のヤブ漕ぎで、やはり目に小枝を入れてしまい、出血をしてしまった事があった。祖母谷温泉に戻って、「飲めば治る。」 と言っていた人達が、「帰ったら、すぐに病院に行った方がいい。」 と心配してくれた事を思い出す。
今回の私の目は、始めは目薬をしたら染みたが、2日目、3日目はそんなでもないのに、一向に瞼の腫れが収まらなかった。眼科に行こうかと思っていたが、もしかして、目が原因ではないのかと、丹念に目と眉の間を調べてみると、僅かな跡があった。虫に刺されたようである。塗る薬がなかった事もあり、適当にメンソレータムを塗る。そして、時間の経過が薬だったと思うが、殆ど分からないように元に戻った。
不注意もあったが、ちょっとした事に傷を負うし、また治りも遅い。バランスを崩す事も多し、咄嗟の対応も難しくなっている。歳を重ねた証拠なのであるが、本当に ”はがやしい。”
6/23 勝手に薬を止めたと言っても、やはり血圧の事は気に掛けている。ところが、4~5日前から、血圧計が故障(壊れた)ので計っていない。本当は、数値なんか気にしないでおれば、いいのかもしれないが、そうとも思えず、血圧計を注文してしまった。 でも、血圧の数値が高いとか低いとか言われるが、上下の数値がどのようなものなのか分からないのでネットで検索してみた。
血圧とは、血流がその流れによって血管を圧迫する力のことで、心臓が血液を送り出す力が大きければ血圧が上がり、弱ければ下がるようです。血管側の柔らかさや、柔軟性によっても変化するようです。血管の柔軟性があれば血圧は下がり、柔軟性が無ければ血圧は上がるとの事。正常血圧値は論争がありますがおおむね140/90mmHg。
血圧とは、
血液が血管を圧迫する力のこと。
「上の血圧」と言われるのは、最も血流の圧力が高くなる時の血圧のことで、
心臓が収縮する時の血圧。「下の血圧」と言われるのは、心臓が収縮から拡張に転ずる時の血圧のことで、
圧力が弱まる時のものらしい。
血圧が高いといけないと言われるのは、川の流れが川岸に圧力をかけて削り取っていくように、
血圧が高いと血管に無理な圧力がかかってダメージを受けるからのようです。
上の血圧が147、下の血圧が94という学会もあり、以前は、年齢+90という数字もあったようだ。そのような事を参考にすれば、私の血圧も、メチャクチャ悪い数字でもないような気がする。といっても、ちょっと高いけれどね。
6/22 ちょっと早いかと思ったが、ススダケ採りには良いのではないかと白木峰とした。ススダケ採りになると、小白木峰か前白木峰に行かないと、思う存分採る事が出来ない。へりーポートに上がる前のお花畑?には、結構なニッコウキスゲが咲いており、歓迎してくれたかと思う程であった。
今回のメーンは、ススダケ採りであるから、白木峰の山頂に行かず、すぐに小白木峰に向かった。祠周辺には、ニッコウキスゲがある程度咲いてはいたが、当たり前の事であるが、「山ノ神」の好きなササユリは蕾もなかった。
「余りないね!」 と言いながらでも、探せばあるのである。帰りは、また登り返さなくてはいけないのだから、「そんなに向きなら無くても・・」 と言っても、「山ノ神」に通じないようであった。結局は、その採ったススダケは、全部私が担ぐのであるから・・・
「山ノ神」には、どうでもいいかもしれないが、私は、ススダケ採りも良いが、小白木峰と白木峰の山頂を踏む事も、目的の一つであるから、「ついつい早く・・」 と言ってしまう。往復4時間半を見込んでいたが、小白木峰山頂での食事時間を入れれば、タイムオーバーとなってしまった。
午後4時半までクルマに戻らなければならないのに、白木峰の山頂に立ったのが午後3時半であったから、結局は、私だけが浮島を往復する事になった。その間、山頂で2本目のビールを飲む「山ノ神」の目算があったからかもしれない。
小走りもあったが、25分程で再び山頂に戻ったが、お腹が空いたのと、ずっしりと重みがあるザックを担ぐのに些か躊躇してしまった。管理棟周辺には、たくさんのササユリが咲いており、急ぐのを忘れるかのように、車から降りて観賞せずにはおれなかった。
6/21 せっかくの第3日曜日であったが、予報からして遠出は無理だと思っていた。もっとも、昨日から、ムコ殿が来高しているし、どれだけ自由に使ってもいいとは故、お天気の悪いのに、そこまでしなくてもとの思いはあった。
起きてみれば雨。「さて、何処へ行こうか?」 であったが、誰からの情報か知らなかったが、「八乙女山のササユリを見てみたい。」 という「山ノ神」の提案ですぐに決まった。「お昼前には戻る。」 との書き置きをして家を出る。
決して早いスタートではなかったが、午前8時半頃から歩き始めた。「八乙女山のササユリは、終焉を迎えている。」 かと思ったが、稜線に出ると一気に数が増え、元気に咲いていた。日頃から、八乙女山へは、あまり行きたがらなかった「山ノ神」であったが、俄然、気分を良くしたのか、元気がみなぎっていた。
峠の東屋から、反射板経由で三角点に立った。積雪期に来る事が多いだけに、登山道を忠実に歩く事がなく、何だか新鮮に感じた。 山頂(最高点)にも新しい標柱が建てられていた。これだけでは、物足りなくなって、道宗道を辿って大寺山まで行く事にした。
八乙女山もそうであったが、大寺山には、見た事もない立派な標識があった。積雪期に見る標識は、かなり高い所に付けられていて、雪の深さが分かるというもの。お昼まで戻る事が出来なくなった事もあり、すぐに下山に掛かった。でも、雨が降り始め、ちょっとは遠くなるが林道歩きを選んだ。
6/20 ムコ殿がやって来た。今回は「大雪渓」という名の清酒を持ってきてくれた。長野の酒では、「白馬錦」 しか知らなかったが、名につられ、ついつい余計に飲んでしまった。たくさん飲めば眠たくなるし、どんどん宿題が溜まっていってしまう。
6/19 娘の帰りが遅いと、時々であるが、孫達と、じゃれ合わなければいけない時がある。「馬になれ!」 「本を読め!」などと言われても、それなりにこなせば、何でも無いと思っていたが、なかなか大変である。これで良しとはいかず、こちらが参ってしまう。孫達とは賑やかでいいが、時々でよい。
6/18 「山ノ神」はユリが好き。ササユリ・ヒメサユリ、そして、その種のものたちで、例えば、ニッコウキスゲ・クルマユリなどなど。私も、嫌いではないし、見るのはそれなりに好きである。でもである。たくさん買い込んで、部屋中強いユリの香り(匂い)が漂うのは如何と思う。中には、頭が痛くなるという人があるくらいだ。
6/17 珍客来高。日頃は暇なのに、このような日に限って忙しい。その合間を縫って、保育所の送迎。そして、通夜まで行かなければならなかった。でも、人間 暇なのより忙しい方がいい。暇だと碌な事を考えないし、口に物を運ぶ機会も多くなる。
「フ~ッ」 といって、息を継ぐ時は、登頂時の達成感に似ているような気がする。「喜んでもらえる。」 「頼りにされる。」 などは、最高の時である。でも、何かと他人様の世話は苦手で上手くいかない。修行が足りないのか、それとも欲というものが邪魔しているのか・・・・ まだまだである。
6/16 山の話になると、当然、山名や行程が出て来て盛り上がる。お愛想で山の話題をしてくれる人は、必ずと言っていいくらい「百名山に登ったか?」 と尋ねてくる。「いやいや、まだまだ・・ うん、私は登れないかもしれない。」 と返すしかない。
費用や時間があり、尚且つ、環境に恵まれていなければとても登れない。もちろん、それに掛ける情熱もなければなるまい。百名山に拘る事もないが、登れる事に越したことはない。山歩きを始め、目標とするには、持って来いの教科書的存在でもある。また、他県の山に登るには、二百名山や三百名山と共に、ガイドブックやネットを含めた情報がたくさん有り後押しをしているように思う。
行けないものは仕方がないから、違った物を求めたがる。自己満足の域に留まりながらも、50回10座と10回100座を目標としている。元気でおればなんとかなるような気がする。そして、百名山完踏は無理にしても、三百名山の内200座は登りたいと思っている。(現在168座)
6/15 2週間ぶり36回目の人形山となった。「またか・・」 言いたげな「山ノ神」であったが、「イヤければ来なきゃいい。」 とか 「もっと速く歩ければ、選択肢が広がるが・・」 と言われるのがイヤで、萎んでしまうのであろう。
前日も述べたが、歩けるだけマシ。 なんだから・・・。 コシアブラ採りも、最終局面の思いがあったのと、他の人(山ノ神も)には、全く意味が無いが、私には50回の目標があるから、同じ山でも歩けるというもの。
汗をタラタラ流しながら歩いているのは、果たして身体に良いのかどうかわからないながら、「1回山登りをすると、寿命が1日延びる。」 と自分に言い聞かせている。80回登っても80日、それを10年続けても、800日であるから、2年余にしかならない。
根拠もなく、くだらない数字の遊びであるが、日頃からの負(暴飲暴食)があるだけに、そのような事をプラスに考えれば、ちょっぴりは励みになるというもの。週に1回(たまに2回)だけに、急激な運動は、身体を壊しているような感じも否定出来ないが、車に例えれば、街中をノロノロ運転していて、不完全燃焼の根詰まり感を、8号線や高速に出て払い除ける作用をしているようなものの考え方である。
少ししかないススダケや、終盤を迎えているコシアブラを採りながら、それでも山頂に立ちたいという欲望が交差してしまうのであるから可笑しい。ガスで視界が遮られていては、意味がないように感じるが、それはそれで、違った喜びや達成感があるのだから仕方がない。
時計を気にしながらのいつもの歩きであるが、車に乗っても時間との勝負である。これだけ、何度も同じような所に出掛けると、何処で何時とかならいいとか、ここからなら、あと何十分かかるとかが分かってくる。こんなのは、山を楽しんでいると言えるのだろうか・・・
6/14 「お天気で、たっぷり時間があれば、何処へでも行けるのだが・・・」 毎度の事であるが仕方がない。行けないストレスと、行けても限られてしまうストレスと、どちらが大きいかなどと、贅沢な事を思ってしまう。
「同じ山でもいいではないか? 歩けるだけ、喜べ・・」 「いつかは、チャンスがあるかもしれないのだから、その訓練と思って・・・」 などと、自分に言い聞かせて、明日も、五箇山方面の山になりそう。
6/13 今日、新聞を見たら、ねぎちゃんとねぎちゃんの娘さんが、県展(写真部門)に入選していた。どのような写真か分からないが、親娘共々なのだから、それは凄い話だ。心から 「おめでとう。」 と言って上げたい。
その欄に、私の従兄弟の名もあったから、これまたビックリ! 80歳の彼は、市展では、何十年の常連であったが、昨年から、県展で名を連ねる事になった。張り合いがあるという事が、元気でおれる事を実証したような感じである。
6/12 私の姉の子(東京に住む姪)に、コゴミ・コシアブラに次いで、ススダケを送った。何を送っても「富山の恵み」 と言って喜んでくれる。そして、その調理法が面白い。家族の要求も変わっているらしく、普通では喜ばないようである。
昨秋のナメコの天ぷらには驚いたし、今年のコゴミでは、何だか怖いような物(実物は初めてのようだった。) と言っていたが、「これは、上手い!」 とのコメントをもらえば、来年も、また送らなければいけないだろう。
6/11 一年は52~53週。いつ頃から、毎週のように、山に登るようになったのかと調べてみたら、平成11年からであった。その先の平成10年は44回。平成9年は46回であった。当HP上に記載していないが、その先に4~5年前は、20~30回であった。
若い頃は、多くて年間10回くらいで、少なければ、4~5回程しか山へ出掛けていなかったように思う。そして、雪山に出掛けるようになったのも、毎週のように出掛けるようになってからのようである。それでも、高校時代から通算すると、50年を超えるのであるから、我ながらビックリである。
特別な事をしたわけでもなく、また特別な技量の持ち合わせもなく、唯、山が好きで歩いていたに過ぎない。そして、自慢するものもない。でも、長い事やっていると、いろいろな方々と顔見知りになり、嬉しい事、楽しかった事、また、得した事もたくさんあったように思う。
体力・気力、そしてまた、環境などを考えて見ると、この先は、そう長くは続けられまい。近間の低山であろうが、登られれば(歩けられれば) それはそれで良いと思っている。それが、ダメになったら、眺めるだけになるのだろう。
6/10 「後悔しない人生でありたい。」 最近、より強く感じるようになった。後悔しないなんて、あり得ない事と分かっていても、より近い道を歩みたいとの思いである。でも、岐路に立たされた時は、本当に悩むし、思いと反対の方向に行く事がある。どの道を選択しても悩むのだから、出来れば思いの強い方をと思いつつも・・・・
「あちらもこちらも、いいように・・・」 なんて事は、なかなかない。「毛頭無い。」 と言った方が合っているかもしれない。時には、捨てなければならない事もある。義理を欠く事もある。そうして、選んだ道は、必ずしも正解だとは言えない。(ダメな事の方が多かった。) でも、自分が選んだ道だと、妙に納得させている。
「もうその歳で、悩む事もないだろう。」 と思う人達がいるかもしれないが、これは、幾つになっても変わらない。いや、同じである。そして、今まで、やって来た事が、跳ね返ってくるような気がする。いい事も悪い事も・・・
6/9 山菜採りもいいが後始末が大変である。昨夜は、娘が東京へ出張のため、孫達を寝かせてからの皮剥きとなり、日を跨いでしまった。ススダケは大半がゴミのようなもので、食する所は、その何分の一であるから、いやはや参ってしまう。
私が参ってしまうのであるから、事前の茹でや、焼く作業が伴う奥方達は大変である。また、それから料理なのであるから、食べるだけの私などは、味などの事を偉そうに述べる事など出来ない。
そのような事を思うと、ちょっとぐらい重い物を担ぐを躊躇ってはいけない事になる。コシアブラも終盤、ススダケも、もう少しになるが、どちらも標高1,500m超えの所になる。
6/8 予定通り唐堀山に出掛ける。夕方、もしくは、夜から雨の予報であったが、我々の歩く時間には降らないだろうと思い込みで歩く。何年前だったろうか、集中豪雨で、道路や鉄道が決壊して以来、加賀沢トンネルの非常口からの入山となっている。いつも思うのは、「あの非常口を施錠されたら帰れなくなる。」 の不安を持っているのは私だけではあるまい。
この時期、どの山に入っても虫(ブヨ)に悩まされるのであるが、唐堀山も例外ではない。しかし、今日は、悪天の前兆なのか、風が吹き、風通しの良いところでは、あまり気にならなかった。今日も遅いスタートだったから、上から降りて来られた方に、「今からですか?」 と声を掛けられた。そして、「土日に、沢山の人が入っているから、ススダケは余りなかった。でも、100本くらい採ったかな?」 であった。
今回の山行前から、「速く歩けば長い間休息が取れる。」 と言っていたからであろうか、それなりの「山ノ神」の頑張りがあったからか、予定内に山頂に届いた感じであった。登山道から外れる県境沿いのルートは、きれいに整備されていて歩きやすかった。取り残しではなかろうが、つまつまと取り出せば、かなりの量となった。
食事をと、へりーポートに着いた頃は、暗雲が立ち込めてきて、雨を想像すれば、のんびり構えているのも、如何なものかと思ってしまった。でも、もう少しと、ススダケ採りとなったが、予定より早めに切り上げ下山することになる。でも、雨には遭わなかった。
6/7 明日は、先週行きそびれた唐堀山を予定している。一年に一度はと、唐堀山が定番になりつつあったのに、このところの「山ノ神」は、あまり行きたがらなくなってきている。それどころか、回避を願っているようにも窺えるのである。
その理由は、だんだんと足が重くなっているせいもあるが、着いた頃に帰らなければなるからのようである。当然、「点滴の充分な時間がない。」 と言いたげでもある。ススダケ採りには、充分興味があるから、「それよりも行きやすい山はないのか?」なのであろう。
「速く歩けば充分時間が出来る。」 と言ってしまえば、また、諍いの種になるが、でも、此処まで来たら、私は、10回登頂を意識してしまう。(現在8回)
6/6 ここ何日か、じっとしていると寒い日が続いた。仕事にしても、所用にしても、忙しくしている分には、それ程でもないが、ヒマしていると、何か羽織らなくてはいけなかった。忙しいと身体を動かすし、余計な事も考えなくてもよいのであるが、ヒマだと碌な事がない。震えているし、口を動かさないと寂しくなる。
人の心は、贅沢に出来ている。そして、無い物ねだりである。もうちょっと、余計目に、そして、上にである。控えめになどの心は、すぐに忘れてしまうずるさに自分ながら閉口している。それは、応対にも表れる。相手様は、私の意見などを求めておらず、頷いて欲しいだけ(聞いて欲しいだけ)なのに、余計なお節介となる。嗚呼、本当にバカたれである。
6/5 ず~っと、会っていない人や、なかなか会えない人がいる。あんなにしょっちゅう会っていたのに、お互いの環境の変化もあろうが、ついついご無沙汰。喧嘩したわけでもないし、イヤになったわけでもないのに、そのタイミングをずらすと、その内にと思いながら、今日に至っているケースがある。
いつも会っているから親友、ずっと会っていないから、親友が解けたというものではないが、知らず知らずに薄らいでいく事は歪めない。逆に、特別気が合うわけでもないが、近くにいる関係上、何かと行動を共にする機会が多い場合、煩わしさを感じる時がある反面、いないと何だか気になるというのか寂しさを感じる事がある。
恋愛も同じようなもので、愛し合っていても、遠く離れていれば、疎通を欠かす事も出て来る。今や、電話やメールで、隣にいるようなものであるが、やっぱり、直に顔を見て話さないと充分ではないような気がしてならない。交通が発達して、より身近になったように感じても、ハードルが多い事は間違いない。
なりふり構わず突進していく若者は、美しく格好がよい。そのような事は、仕事でも日頃の付き合いでも感じる。トレーニングでも遊びでも一生懸命が良い。面倒になったら、それこそ歳なのである。私の周りには、そのような元気者がたくさんいる。負けてはおれないネ!
6/4 次行く山を模索する。もう少し、山菜採りを兼ねた山になるだろうが、ちょっと、ご無沙汰している山や、もうちょっと、遠くの山に行ってみたい気もする。しかし、なかなかそのような状況にならず、ちょっぴりストレスが溜まっている。
途中まで一緒で、その後、時間を限られながら、山頂まで駈けるのであるから、身体的(肉体的)には、それなりの負荷を掛けているし、それほどでもないのだが、やはり、意欲を削がれた状態が長く続くと、歳相応には、まだ納得出来ないところがあり、やっぱり滅入るのである。
昨年の5・6月は、大山・上蒜山(鳥取・岡山)、磐梯山・一切経山・二股山(福島)へ出掛けている。「ああや、こうや」 と言いながら、3月の初雪山、7月の白馬岳、9月の立山周辺、11月の山梨遠征(七面山・茅ヶ岳)など、合わせれば、6回も泊まり掛けの山行をしているのだから、「何を贅沢な!」 と言われかねない。
「でも、でも・・」 なのである。限りない欲があっての、”張り” のような気がする。「もうちょっとだけ、自由が欲しい。」 それは、豪華な旅行をしたいとか、珍味を食べ歩きたいとか、街へ飲みに行きたいなどと、贅沢を求めているわけでもないのだから、いいような気がするが、なかなか上手いわけにはいかない。
そうなれば、どれだけも時間(期間)がないのだから、「おお神様!」 と願うしかない。でも、結果的には、私自身の”かいしょの無さ” を自覚するしかない事になる。
6/3 山菜採りもいいが後始末が大変。でも、コシアブラは、その手間がいらない。採った後も軽いし、最近は、かなり持て囃されるように、とても美味しい。その調理法であるが、天ぷらやお浸し、また、炒めたり、混ぜご飯も人気メニュー。ネットで調べてみると、レシピがいっぱい。人気所以からかもしれない。
6/2 予定していた唐堀山を人形山に変更する。ススダケ採りが目的であるだけに、喘ぎ喘ぎ山頂に達しても、あまり時間がないのでは、辛いだけで面白くないというのが「山ノ神」の意見。辛いの ”ダヤイ”のは、何処も同じなのに・・・
その人形山、前半は、ちょっと細いながらもワラビ採り、後半は、完全にコシアブラ採りとなってしまった。いつもの所へ行かなくても、イヤになるくらい?採っちゃった感じであった。そして、まだ大量にとは言わないまでも、ブヨが目や口に入ってくるようではイヤになった。
そして、山頂まで走るように歩けば、まだ行ける時間であったが、2日間の連続で、「山ノ神」を残して、私一人が駈けてもしょうがないと思ったのも事実。しかし、あちらが点滴で良い気分になっていても、こちらはする事がない。そしたら、またコシアブラ採り。
6/1 今日は参った。6月になったら、大長谷側から金剛堂山と決めていた。もう3年目になる。しかし、冬期閉鎖が解除されたかと思っていたのに、ゲートは閉まっていた。何台もの車が帰って行ったし、カギを開けて行った車も帰ってきたのだが、歩きなら大丈夫と思って、山菜採りバージョンに変えて出発したが、積雪期や残雪期の小白木峰の取り付き地点を、かなり過ぎた所で、道路が陥没していた。工事関係者に、無理すれば、行けるかもしれないが、帰りは請け負えないと言われれば、どうしてもと言えなかった。
誰も入っていないのなら、山菜の大収穫出来たのに期待もパーである。気の毒がった工事関係者の若者が、ゲートまで送ってくれ、これまた、こちらが恐縮であった。こうなれば、どうしようもなく、栃谷(利賀の百瀬)から、再び金剛堂山を目指すことになる。
そのスタートは、午前11時であった。ススダケはまだ小降り、でも、コシアブラはたくさんあった。しかし、時間制限下で有りその収穫は限られたもの。でも、かなり採ったかも。結局、山頂へは、またまた私だけ。